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Shinsaibashi Miyataka Survival Story

「挫折からの出発」物語編 Page8


落ち武者

心斎橋の盛衰を見続けてきた
由緒ある看板が、職人の手により あっけなく撤去されました。 大正時代、時代の最先端として商店街内に10店舗以上が軒をつらねた 「洋傘とショールの店」
「心斎橋みや竹」はその中でも草分け的存在で、明治より4代続いた傘の老舗でしたが、 1997年1月15日、事実上その灯は閉ざされ、 後は契約がきれる月末までに全ての商品、什器一式を持ち出さねばならぬ余命


突貫作業の荷造りがすすむなか、閉ざされたシャッターの傍らに(祈るような気持ちで) こんな張り紙をだしました。チラシも沢山コピーして持って帰れるようにもしましたが、 目をとめる人はまばら、「あぁ、みや竹はん潰れはったんやなぁ」 「あそこの息子さん、所詮ボンボンのアカンたれやってんな」という囁きや失笑、 近隣店舗の蔑視ともとれる言葉しか扉ごしには聞こえてきません。


チラシを手にとる人も少なく、ただ風に舞いうたれ、くすみ汚れていくのが何より悔しいことでした。 あの時ほど、未だインターネットが市民権を得ていないんだと痛感した時はありません。 体裁のよい挨拶文、仰々しく強がりを吐いてはいるものの「敗走」には違いない。 ミナミの繁華街で道行く人々はそう思い、 日経新聞は「心斎橋で最後の傘屋が潰れた」と記事に書きたて、 その可能性を予見して理解しうる人は皆無に等しかったのです。


100年続いた一等地の店といえども、商業地売却は底値のうえ 足元をみられ、そのうえ売却金の大半は 借金返済と国家に貢献する形の金になります。手元に残った資金は新規事業開設にはまったく問題にならない額。 顧みれば、もしインターネットというメディアがなければ、手も足もでない窮した状態でした。 SOHOに憧れたなどという甘っちょろいものではありません。 後に「傘屋の英断」と紹介されてはいますが、 当時の私には、自宅店舗(事務所)、ネット通販という道しか選択の余地がなかったのです。 もう一歩も後ずさりすることの出来ない崖っぷち。


私が自宅店舗の改築ができあがるまで、仮の城と決めたのは自宅から目と鼻の先 チンチン電車「聖天坂」駅前。駅前とは名ばかりで小さな炉端と中華料理屋さんと パン屋さんがあるだけのホンマにのんびりした住宅地です。 こんなところで「傘専門店」ができるなんて冗談にもおもえないような場所ですし、 近所の人々も数奇な目で搬入を見ていました。


まさに荷物の山、山、山。6分の1のスペースに傘を押し込めるわけですから、無理は承知。 さらに解体寸前の自宅からは命綱の「Aptiva」を(無謀にも)バックアップもとらずに 自転車の荷台に括り付けて運びました。
内装は前の借り手の喫茶店仕様のまま。無理矢理のレイアウト。 カウンターには3段傘がならび、カップ棚には折りたたみと包装紙。 客席部分に段ボールが山積みでしたが、奥のブレイカー下の一畳ほどのスペースに 無事パソコンは安住の地を見つけました。リズミカルにキーをたたく音が古い木製の床に響き、 命綱ともいうべき電話線がひかれました。 行く手に待ち受ける試練。商品の隙間をぬって配線されたたった1本の電話線。 まさに今自分の人生すべてが、この細い線に委ねられ、 そしてその成功の可能性、のぞみは、電話線と同様に真に「細く険しい長く心もとない道。」 に思えたのです。



夜遅くまで傘を整理していると、私には本当に幻がきこえました。 前の通りをいきかう沢山の足音と語らいが・・・ シャッターの向こうはひょっとして心斎橋じゃないか、きっと心斎橋。
こだわらない、振り返らないといいつつも、やはり心斎橋を愛しつづけた心は偽れません。 しばし目を閉じれば、こどもの頃おじいちゃんに不二家でドーナツとパラソルチョコレートを 買ってもらった光景が映りました。 でも現実のシャッターの向こうにはのら猫と不法駐車と深い闇。


準備期間や心斎橋を出るときは段取りで精一杯で悲しみに浸る間もなかったのですが、 この時はじめて、私は心からほとばしる涙を流しました。 巨大な不安、寂しさ、感謝、絶望、期待、虚無感が一瞬複雑に交錯しました。 そして振り返り、まるで落ちのびた敗軍の将の如く、傘たちに囁いたのです。 「忠誠なる傘たちよ。よく私についてきてくれたね。ありがとう」 かつてない商品愛が心を覆い尽くした夜です。


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