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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
◆◆◆パラソル断章(其の一)◆◆◆






夏の快適生活シーンを演出するパラソル


近年、有害な紫外線から肌を護るといった健康上のこともあり、パラソルを愛用する
女性がおおくなっている。紫外線の量は5月頃が最も多いようだが、直射日光の暑さ
を防ぐ有効性も加味すると、梅雨明け後の夏本番こそパラソルが活躍して生活シーン
を快適に演出するチャンスといえる。

紫外線から肌を護り、加えて自分だけの涼しい小宇宙を持ち運ぶ−という実利性だけ
でなく、ファッショナブルなパラソルを差した姿のシルエットは、夏であるからこそ
表現できるアウト・ドアでのエレガンスといえる。

パラソルが日本人の生活に入ってきたのは、明治維新後の鹿鳴館風俗あたりからだが
、生活の中に採り入れる習慣をリードしたのは、皇族方の洋装シーンであったとされ
る。パラソルの先進国ヨーロッパでも、ファッションとしてのパラソルを先導したの
は皇帝夫人や上流階級の貴婦人たちであった。
 そんなことから、イタリア、フランス、イギリスを中心としたパラソルの歴史を極
めて大雑把に振り返ってみたい。



=====エピソードで見るパラソルの歩み========


パラソルの起源は古代オリエント文明まで遡るとされるが、古代から中世まではおお
むね王権や教皇などの権威の象徴として儀式的に利用されており、日除けやファッシ
ョンなどの用具として使われ出したのは、16世紀以降のようである。
(以下、パラソルを日傘と表記)



【16世紀 】

イタリアなど南ヨーロッパの国々に日傘が導入され、製造が行われていた。



[1533年]−メディチ家のキャサリンが、後にアンリ二世となるオルレアンのデューク
に嫁入りする際、フランスに日傘を持参した。

[1537年]−ストラスブールで発行された百科事典に「日傘」の記述がある。当時、ド
イツで実際に使われていたか否かは定かではないが、存在が知られていたことは確か。


[1598年]−ロンドンで発行されたフロリオの『伊英辞典』に「傘」(扇、団扇、天蓋
などと一緒に)の記述があり、「夏」に日陰をつくるために用いる。布製と注釈され
ている。



【17世紀 】

イタリアで日傘が女性のモードに堂々と登場する。骨組みは軽く、柄には優雅な細工
が施され、貴婦人たちは、夏になると長い柄の日傘を持ち歩いた。


[1637年]−ルイ13世(在位1610〜43)の所蔵品目録中に「タフタ製日傘11本、油を引い
た布製の傘3本。金銀のレースの飾り付き」とある。


[1660年]−マリア・テレサがルイ14世(在位1643〜1715)に嫁入りする際、馬車に乗
り、小さな日傘を翳して、セント・アントン門からパリに入場した。



【18世紀 】
イタリアで「オンブレッリーノ」と呼ばれた小型の日傘が流行。

[1736年]−ベイリーの百科事典に「日傘は婦人の特権であり、優雅に頭上へ掲げるも
の」とある。イギリスの婦人は、自分用の日傘を所有して、その運び手を雇うことが
ステイタスシンボルの一つとされた。

 日傘は次第に一般化し、18世紀中頃には衣装アクセサリーとして最も重要視された。

[1777年]−イギリスのある雑誌に「絹の傘はフランスでパラソルと呼んでいる。先端
(石突)は象牙製、中棒は漆塗り、使用する時は先端の方へ押すと、バネ仕掛けで開
く」とある。



【19世紀 】

衣装アクセサリーとして極めて小型の日傘が流行。当時の帽子が日傘より大きかった
ほど。
 世紀の終半にかけて、健康上から外で過すことの重要性が唱えられたことから、日
傘が重宝された。機能性が高まると同時に繊細な趣味性も表現され、傘の裏側の色を
衣服の色合いに合わせる習慣もあった。最後の10年間には、いっそう鮮やかで多彩
な日傘が登場し、当時の有名な舞踊家の名前をとって「ロイ・フラー」と呼ばれた。


[1815〜30年]−日傘が年ごとに季節ごとに変化し、さまざまな装飾や材料が導入され
た。その主なものとして、布地では、染色したチリメン、ダマスク織サテン、市松模
様の絹、格子、縞その他の模様。飾り物としては、ブロンドレース、絹トリミングな
どなど。


[1830年代後半]−上流階級の婦人たちが馬車で外出する時、「マルキーズ(公爵婦人
)」と呼ばれる日傘を携行したが、これはドーム(丸屋根)型の小型の日傘で、骨を
隠すため内側が布で裏打ちされており、最新ファッションを見せびらかすのに最適と
みられた。
 「マルキーズ」はまた、「あだっぽい女」とも呼ばれ、恋を弄ぶための小道具とも
なったが、これはポンパドール公爵夫人に因んだものと考えられている。

[1850年代]−ナポレオン三世(在位1852〜70)の妻女帝ユージェニーが日傘を採用し
た。それはファッション界のまぎれもないリーダーであることの象徴であった。彼女
は、15年ご、ケントに追放されている間も日傘を愛用した。


[1881年]−パリの有名な女優サラ。ベルナールが舞台で、日本の日傘(竹組み・紙張
り)を使って評判となり、10年間ほど大いに流行した。


≪補注≫(ほぼ相当する日本の時代)

 (イ)16世紀は、日本の室町〜安土桃山時代。
 (ロ)17世紀は、江戸の寛永〜万治、三代将軍家光と四代将軍家綱の時代。
 (ハ)18世紀は、元分〜明和、八代将軍吉宗から十代家治の時代。
 (ニ)1815年〜30年は、文化〜文政、十一代将軍斉の時代。1850年代は嘉永〜安政
、十二代将軍家慶から十四代家茂の時代。1881年は明治14年。

 




  ====パラソルによるアイデア商売====

18世紀中頃から特に、日傘への関心が強まり、ニーズも高まったが、当時の生産量は
限られており、高価なアイテムであった。
そんな人気と供給とのアンバランスに着目してか、1769年に日傘の新商売が行われた。
 パリのポン・ヌフ周辺地は、散策や憩いの場所として人気があり、多勢の
人々が集まった。そんな人々を対象に、ある会社が同地区における特権を得て、パラ
ソルのレンタル業を始めた。お客は橋の一方側で借り,向こう側で返すことができる
というもの。
 このアイデア商法は、パリの他の地区でも計画され、また、その後にも時々導入さ
れた。
 1771年のH.W.バンブリ−による「パリのポン・ヌフ光景」には、パラソルを差した・
jの姿も描かれている。

[注]ポン・ヌフ(Pont Neuf)=新しい橋

 セーヌ川のシテ(中の島)を渡して両側に架けられた石造りのアーチ橋。右岸側、
左岸側とあり、フランス・ルネッサンス期の代表とされ、アンリ四世により、1607年
竣工。「ポン。ヌフ橋の上にはパリ生活の縮図がある」といわれ、パリッ子人気の場
所。多くの画家や詩人などが描き、詩っている。




◎大阪の中ノ島公園と地形が似ていませんか?











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