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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
◆◆◆日本の傘(其のニ)◆◆◆
上流階級から庶民層へ普及





 日本列島における「かさ」の使用が、既に4世紀頃から始まっていることは、遺跡
・古墳などの出土品から確認されている。これらは、「きぬがさ」(蓋・繖・衣笠・・
・・・)と呼ばれ、豪族や王たちの権力を象徴するものの一つとして、儀式的に用いられ
たものと考えられている。


 きぬがさは、主に絹の布地を張り、天井部(石突)を長い柄の先端から吊るすよう
にして用いた。


 これに対して、柄が傘の中心部を貫くような構造にしたのを「おおがさ」と呼び、
絹布のほか、菅や竹製のもあり、雨にも使用することができた。和名類聚抄(934年頃
)に「柄の有る笠」としてある。これが後の「長柄傘」となり、実用的な蛇の目傘や
番傘などにつながってきたと思われる。




 (A)長柄傘(ながえがさ・ながからかさ)―― 平安時代 ――

 紙張りの長柄傘が出たのは、寛平年間(889〜897)といわれ、平安時代には、紙に
油を塗った雨用の傘も出ている。
 前出の和名聚抄には、旅行用の道具として、蓑笠(みのがさ)と並べて「おおがさ
」を載せている。また後撰集(956年頃)に「雨の降る夜に、おほかさ(おおかさ)を
ひとつにつかはしければ・・・・・」、権記の長保2年(1000年)11月3日条には、藤原頼明
が出掛けた先で雨が降り出したので「笠を指す」とある。
 傘が権威の象徴や儀式用から、実用的な利用へ一歩近づいたことになる。
しかし、長柄傘は、お伴の者が長い柄を支えて前の主人に差し掛けるようにして用い
られたもので、その恩恵を受けるのは上流階級層だけであった。



 (B)朱柄傘と手傘  ―― 鎌倉室町時代 ――

 鎌倉・室町時代になると、朱い紙張りの長柄傘が出て、これは朱柄傘(おおえがさ
・あかからかさ)と呼ばれ、公家、武家、僧侶が日傘・雨傘の両方に用いた。

 宗五大草紙(1528)に「朱柄傘は公家門跡其他出家はさゝれ候、武家には大名其の
他随分の衆ならではさゝれ候はず候、大方の俗人はさゝるまじく候」とある。

 一遍聖絵や北野天神縁起などには、庶民が長柄傘とは異なり、より柄の短い傘(手
傘)を差している姿が描かれており、傘をたたんだ形も見られる。

 3年程前、鎌倉時代(1192〜1334)の鎌倉市にある米町遺跡から、当時、職人街のあ
ったことが発見され、曲物や漆器などに混って、木製の傘ろくろが出土した。この傘
ろくろは、現在の和傘に用いられているものと殆ど同じであり、既に傘が開閉する機
能のあったことを裏づける。


 近世世事談では、文禄3年(1954)に堺の商人である納屋助左衛門がルソンから持ち
帰り、いろんな文物と一緒に豊臣秀吉に献上したのが我が国での開閉式傘の始まりで
あり、これを見習って作るようになったとしており、後に和漢三才図絵(1712)もこの
説を踏襲している。しかし、この説は前述した事からみても、訂正されるべきかと思
われる。
 また室町時代(1335〜1573)には、職人の組合ともいうべき唐傘座が設けられており
、「七十一番職人歌会」「職人尽図」などに傘張り職人が見られ、傘作りが生業とし
て盛んになったことが窺われる。それだけ、傘の需要層が広がったことになる。ヨー
ロッパで一般に用いられるようになるのは18世紀後半からのことであり、日本での傘
普及の先駆性に気付かされる。



 (C)爪折傘と大黒傘 ―― 江戸時代 ――

 天文年間(1532〜55)頃から、長柄傘を更に工夫した「つまおりがさ」(端折傘・
爪折傘)が出る。これは親骨の先端部分を内側に折り曲げたものである。紙張りで、
朱または白の荏油を塗り、竹の柄は藤巻き。骨は黒塗り。白爪折傘は白の柄を付けた。

 江戸時代、公家は主として朱の爪折傘、武家は四位以上が白の爪折傘を用いた(四
位より以下は用いず)。また、大名行列に不可欠で、松平越前守家では、傘を先箱の
後に、松平越後守家では前にする慣習であった。なお、爪折傘は布の袋に納め、傘持
ちの従者に持たせるのが通例であった。
 
 元文年間(1736〜41・八代将軍吉宗)になると、爪折の手傘がでる。

 上流階級層に対し、庶民層では、蛇の目傘や大黒傘(番傘)が普及する(蛇の目傘
は前回に記す)。
 大黒傘は、天和年間(1861〜84・・・5代将軍綱吉)に大阪の大黒屋が売り出したもので
、前面が白紙張り。骨の削りが荒く(太目)、装束糸はないが強い繋ぎ糸を用いるな
ど、やや粗製だが丈夫で安価なことから、各地へ普及した。なお、大黒傘の名は、大
黒天の印を押して売り出したからともいわれる。
 正徳年間(1711〜16・七代将軍家継)には、江戸でも作られるようになるが、幕末に
至るまで多くは大阪からの下り傘であった。
 
 享保年間(1716〜35・八代将軍吉宗)、紀州から大黒傘の骨を細目にした、より安価
な傘が江戸に入り、これを「手代傘」と呼び、また大黒傘の上製品を「東大黒」(あず
まだいこく)といった。

 大黒傘は、商家などで使用人が用いたり、客に貸出したりするために何本も備え、
それを管理する便宜上から傘に番号を入れたりしたことから、番傘(のち、これが一
般化する)とか問屋傘とも呼ばれた。
 
 江戸末期の歌舞伎劇『梅雨小袖黄八丈』の台詞に、「にこにこ笑った大黒の口をつ
ぼめた傘も・・・」と、嚇し(おどし)文句にもじって使われている。
 大黒屋が廃絶した後も、江戸では大黒傘と呼んでおり、人気ドラマの台詞に取り入
れられるほどに普及したことをうかがわせる。











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