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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
身分(階級)による傘の色分け




   (イ)大宝律令の定め


  洋の東西とも、傘がその原初において、時の権力者の権威と尊厳を象徴するものと
して尊重されていたことは、共通に認識されているところであろう。
 日本においても、4〜5世紀に属する古墳から蓋(きぬがさ)の埴輪(はにわ)や
木製の立ち飾りなどが多数出土しており、その起源は、もしかすると卑弥呼(ひみこ)
の時代まで遡るかもしれない・・・・・。


 やがて大和朝廷が形成され、飛鳥時代の西暦645年に天皇を中心とした中央集権的
国家体制を目指した政治改革が行われた。すなわち大化改新である。翌大化2年には
『改新の詔(しょう)』により、

@私有地を廃し、公地公民とする。
A全国を国・郡・里に分ける。
B戸籍を作って班田収受の法を行う。
C租・庸・調の税制を敷く。―――という、政策目標が示された。

この中央集権体制は、大宝元年(701年)の『大宝律令』に至ってほぼ完成される。


 この大宝律令では、貴族の身分によって、儀式等で用いる傘(きぬがさ=蓋・繖)
の色分けが定められている。それだけ傘が律令体制の中で、重要な位置を占めていた
ことになる。それは次のように色分けされた。

    皇太子の蓋・・・・・・・・おもて 紫、 うら ※蘇芳(すおう)
                  ※蘇芳=黒味をおびた紅色。くすんだ赤色

    親 王の蓋・・・・・・・・・おもて 紫の纈(しぼり)、 うら 朱

    一 位の蓋・・・・・・・・・おもて 深緑、 うら 朱

    二〜三位の蓋・・・・・・おもて 紺、 うら 朱

    四位の蓋・・・・・・・・・・おもて ※縹(はなだ)、 うら 朱
                         ※縹(はなだ)=明るい藍色


  なお、法隆寺献納御物のなかに聖徳太子(574〜622年)の蓋と称するものがあり、
この布地は、おもてが紫、うらは緋色という。また、威儀用として、紫繖(しさん)
・菅繖(かんさん)・菅蓋(かんがい)があった。






 (ロ)上流階級は布・普通の人々は紙の傘

  文明発祥地の一つである中国は、メソポタミアやエジプトのように傘の歴史も古く、
権力者の象徴や宗教的な儀式(演出)用として、時代と共に変化した。
 1012年には勅令(布告)をもって、皇帝一族の者だけに傘の使用を許すと規定され
たが、現実的にはほとんど無視される状態だった。それだけ傘が広く愛用されていた
ということであろう。


 明王朝の時代(1368〜1644)、身分階級によって、携帯できる傘が5つのパターン
に分けられている。


(1)上流官吏層は、赤い絹を裏張りした、三つのひだ飾りのある、黒い絽(ろ)
     (中国風ガーゼのようなもの。糸目をすかして織った絹織物の一種)を張った
      傘を携行する資格を与えられた。

(2)それに次ぐ貴族階級は、同じ仕様だが、二つのひだ飾りしか許されなかった。

(3)家柄の良い上流階級に属する平民たちは、錫製のひょうたん型の握りを付けた
      赤い傘。

(4)その次の階級は、赤く塗られた木製の握りのある赤い傘。

(5)そして、五番目の階級は、赤く塗った握りと二つのひだ飾りのある、青い布地
      を張った傘・・・・・というぐあいである。


 なお、こうした上流階級に属さない普通の人々は、絹や布地を張った傘の使用は許
されず、丈夫な紙の傘を用いた。その傘は、威厳という面では劣るものの、日除けや
雨を凌ぐ用途として十分に機能するものであった。

 
 これら実用本位の傘は、明王朝初期の1386年にあって、書画類が10点あるいは桃
と梨100個分に相当する価値があったとされる。普通の人々とはいえ、大方には高
嶺の花だったであろう。それだけ一層、絹や布張りの色鮮やかな傘が威厳をもって際
立ったことであろう。
 

 同時代の日本(鎌倉〜室町時代 1180〜1573)では、すでに唐傘座という職人組合
があり、朱柄傘(あかえがさ)が公家・武家・僧侶階級で使われるという区別はあっ
たが、庶民レベルまで普通に傘が使われる状態へと普及し始めている。









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