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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
遊女が用いた傘 (その1)



【1】権威から始まった傘
 

 日本における傘の源流は、4世紀末から5世紀前半とされる滋賀県八ノ坪遺跡で出
土した「蓋(きぬがさ)の木製立ち飾り」まで遡ることになる。これは現在の傘でい
う、石突部辺に飾り付けるもので、長さ30cm、幅約13cmの黒漆塗。線刻模様や透かし
がある手の込んだつくり。

 大和政権の大王墓とみられる慣らし日葉酢媛(ひばすひめ)陵で出土した大型の蓋
形埴輪と大きさや表面の模様がそっくりといわれ、大王家や豪族らが権威誇示のため
に用いたと見られている。

 つまり、日本書紀にある「欽明(きんめい)天皇13年(552年)に百済(くだら)
の聖明王の使いが蓋(きぬがさ)をもたらした」とするよりもはるか以前から我が国
でも傘が用いられていたことになる。



 そして、律令体制を整えるべく設けられた大宝律令(701年)では、位階の別によっ
て儀式用に使うきぬがさ(蓋)の色分けが厳密に定められている。権威象徴としての
傘が国家体制の中に位置づけられたことになる。



 こうした権威・儀式用としての一方で、平安も中期頃になると長柄傘が常用的に使
われるようになる。例えば、平安時代の辞書ともいうべき源順(みなもとのしたごう)
が編した『和名類聚抄』 (934年頃)には、雨具として蓑(みの)・笠(かさ)と並
べて(おおがさ)を載せていたる。

 そして、『後撰集』(956年)には
「雨のふる夜、おほかさをひとつにつかはしたりければ・・・・・」、

『荻窪物語』(985年頃)には
「おほかさをふたりさして門をひそかにあけさせ給て・・・・・」

『枕草子』(993〜1000年頃)には
「からかさをさしたるに風のいたく吹きて・・・・・」、

また藤原頼朝の日記である『権記』(991〜1011年)の
長保2年(1000年)11月3日条には
「出先で雨に降られからかさ(笠)をさす」
というような記述がみられる。



【2】俗人は使うべからず    これら資料的な記述からみると、傘が権威の束縛から離れて一般的な常用品とにな ったような印象も受けるが、実際に恩恵に預かるのは殆どは当時の上流階級に属する 人々に限られていたようである。  おおがさは、長い柄(え)が取り付けられていたことから「長柄傘」といわれ、別 名「朱柄傘」とも呼ばれた。これは、赤い紙張りをしたからともいわれ、あかえがさ  あるいは、あかからかさ などとも呼ばれたようである。  そして、室町時代に伊勢貞頼が著した『宗五大抄紙』(1528年)には、、「朱柄笠は 公家、門跡そのほか出家はさされ候」、「武家には大名そのほか随分の衆ならではさ され候」としてあり、傘の使用に関する一般通年として差別意識があったことをうか がわせる。  また同書には「公家様の御日笠は御小者にささせられ候」とあるように、長い柄の 傘は、従者が抱え持って主人の後ろから差し掛けて用いた。従って、制度上の禁制も さることながら、小者(従者)を随伴させることが出来るような余裕のある身分でな ければ、気軽に使用が出来なかったのも確かであろう。  だから、長柄傘を差し掛けさせて外を歩くことは、現代で高級外車を乗り回すこと がそうであるように、当時のステイタスを示すことであったと思われる。 (鎌倉から室町時代にかけて、一人持ちで傘をさすスタイルが見られるようになり、 江戸時代における大いなる普及へと道を拓くことになる)。
【3】遊女は上流階級だった・・・・・?    一般の人々(大方の俗人)は差してはならないとされ、公家、僧侶、大名または身 分のある武家が使うものだとされた当時の傘だが、例外的に使用を認められていた (あるいは黙認されていた)者たちがいる。それは遊女(遊行女婦)たちだった。 後白河法皇の編により、嘉応元年(1169年)頃に成った歌謡集『梁塵秘抄』に、      遊女(あそび)の好むもの、   雑芸(ぞうげい)、鼓(つづみ)、小端舟(こばしぶね)、(おおかさ)、   翳(かざし)、艫取女(ともとりめ)、男の愛祈る百大夫 とある。  遊女(あそび)は、遊芸(主たるものは歌唱や舞)をもって貴人、富家の宴席を賑わ し、また枕席にも侍した職業遊女である。平安時代の遊所として賑わったのが淀川べり に位置する「江口・神崎」で、船で通る客に遊女たちは小端舟で近づいて誘いをかけた。    艫取女は遊女の先輩格で、専ら遊女の売り込み、交渉に当たった。翳(翳=うちわの 大型のもの。高松塚古墳の壁画にある)は派手な作りで遊女の目印(広告)ともなり、 妹格の遊女見習いが、後ろから遊女に差し掛けた。  遊女は一方でクグツ(傀儡 くぐつ傀儡子くぐつし)とも呼ばれた。(その関係は多 少の考証を必要とする)。百大夫は西宮神社の末社百大夫神社にまつられる道祖神で 傀儡子の守り神である。    遊女は我が国の歴史と共にあるといってもよく、万葉集にその名前と歌が載せられて あり、天皇や高位の貴族たちの宴席に招かれたりすることが常であった。そんな関係か ら、遊女たちは自らを誇りとして、周りもその存在を容認したという背景があって、 彼女らは堂々と用いることができたのではないのかと推量される。    次回に続く・・・

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