backhome

文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
植木等さんと洋傘のCM




●今に語り継がれるテレビCMの傑作
 クレージーキャッツのメンバーで、「スーダラ節」の大ヒット曲や映画 「無責任男」シリーズの主演などで一時代を画した植木等さんが去る3月 27日に死去、享年80歳。植木さんといえば、輝かしい芸能界での活躍はそ れとして、洋傘のCM「なんである アイデアル」の映像が強い印象として 残っている。  このCMは、テレビ広告界初期の傑作として、今でも広告業界の中で 語り草として伝えられている。  広告評論家ともいえるコラムニスト天野祐吉さんが4月10日付朝日新聞 の『CM天気図』で触れている。「そのCMは、なんと5秒。中央に傘を さして、ひとり植木さんが立っている。で、頭上の傘を指差して――。 なんである、アイデアル」/というだけのCMである。(アイデアル洋傘骨 1964年)。」「当時このCMは大ヒットした。いまもこれを超えるCMはそ んなに出てきていない、と言ったら無責任かな」―と  「独創性と卓抜なアイデア」が評価され、社団法人・日本放送作家協会 (大林清理事)からCM作品賞金賞が授与されている。
●画期的だった「スプリング式折たたみ洋傘骨」
 (株)丸定商店(⇒後 (株)アイデアルと改称)が製作したこのCMは、スプ リング式折りたたみ洋傘骨(商品名=アイデアル)の販売促進を企図したもの で、前年1963年9月からオンエアーされていた。  当時の一般的な折りたたみ洋傘は、取り扱い上での不便さが伴っていた。 これを改善したのが「スプリング式折りたたみ洋傘骨」で、昭和29年(1954) に開発され、同31年(1956)に特許登録がされている。これと前後して、様々 な改良型の折りたたみ洋傘骨が考案され、昭和30年代から40年代にかけて、 市場は折りたたみ洋傘全盛時代といえる状況であった。  丸定商店は、昭和35年(1960)からテレビ・ラジオ・新聞等で「アイデアル」 の宣伝広告を展開しているが、”植木等のCM”で一挙に爆発的な人気となり 問屋筋や小売店などが「アイデアル」の看板を掲示するほど全国的に知名度が 上がって、洋傘骨「アイデアル」が、一般の人には「洋傘」の代名詞と思われ るほどであった。  植木さんは昭和32年(1957)にハナ肇さんが結成したコミックバンド「クレー ジーキャッツ」に参加、同36年(1961)にテレビのバラエティー番組「シャボン 玉ホリデー」に出演して頭角を現し、この年「スーダラ節」が大ヒット。翌37 年(1962)に映画「ニッポン無責任時代」に出演するなど、特にスターとして 上昇機運にあった。そんな超人気スターを起用したこと自体、このCMは絶妙 なタイミングだったといえよう。
●化学繊維の洋傘生地が寄与
 戦後になり、経済活動が盛んになる生活環境の下で、折りたたみ洋傘に対す る潜在的需要が高まりつつあった。昭和30年代に入って、急激に需要が伸びた のは、上述のように折りたたみ洋傘骨の改良・開発が進み、機能的な面で取り 扱い方が便利になったことがある。  加えて洋傘生地として、ナイロン製(昭和27年)やポリエステル製(同35年)の 素材開発が大きく影響したことが指摘される。  それまでの主要な洋傘生地素材は、木綿や絹(一部合繊など)であった。絹は 価格が割高な上に生産量が限定され、木綿は化学繊維に比べて生地が厚手とな るため、折りたたみ傘用としては難点があるなど、共に量が要求される大衆 普及品に適するものではなかった。  それに対してナイロンやポリエステル繊維の傘生地は、丈夫で薄く、軽いなど 折りたたみ傘に最適な素材とされ、量産も可能なことから、一挙に化学繊維時代 へと変化した。
●市場の6割強を占めた折りたたみ洋傘
 昭和30年代後半から40年代初めにかけた洋傘市場(洋傘骨の出荷量から)は、 年間生産2500〜3200万本ほど。そのうち、折りたたみ傘の比率は、昭和38年で約 44%、同39〜41年には60%、同43年には65%を占めるに至っている。  そして丸定商店(アイデアル)の洋傘骨出荷量は全体比で昭和38年に約28%から 39年には38%を占めるほどに増伸し、隆盛ぶりを示している。
●二度目の「なんである アイデアル」
 「なんである アイデアル」のCMが同じ植木等さん再製作され、平成2年 (1990)4月にオンエアーされ、マスコミの話題になった。フィルム撮影は都内 某所のスタジオでほぼ一日がかりで行われた。  素敵なスーツに身を包み、帽子を被ってスタジオに現れた植木さんは、スキ ッとしたオーラを発する紳士であった。植木さん自身、20数年前のCMイメージ とは違った表現をするため、嫌な顔もせず何回も撮り直しに応じ、積極的にアイ デアを提案されたりした。  そして最後に、あの独特の高笑いを採用することとなり、懐かしさと合わせて 視聴者の目と耳を楽しませてくれたのであった。   ※テレビの植木さん追悼番組中でも「なんである アイデアル」の映像が流されていた ※CM写真はアイデアル社誌(昭和61年発行)『チャレンジそして未来へ』からの転載。 ちなみに社誌の編集と監修は鈴木勝好氏(当時 洋傘タイムズ編集長)が担った。

B A C K