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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
◆◆◆ 皇室と洋傘の関係事始め ◆◆◆



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鈴木氏寄稿文  平成14年7月分
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近時、皇室方と傘の関係といえば、椛O原光榮商店の名が挙げられます。明治維新に
よる文明開化の中、日本人の生活様式を洋風化する上で、皇室の果たす役割は大変に
大きいものがあったといわれます。身の回り品に関しても、今風に言えば、ファッ
ションリーダーであった訳です。
幕末から明治初めにかけて、舶来の洋傘は先ず士族階級に愛用され、専ら男性が使っ
ていました。間もなくパラソルが上流階級婦人jのファッションアイテムとして珍重
されるようになったのは、皇族方の
先導があったから、やがて一般にも流行するようになりました。
そのような事情も含め、皇室と洋傘業者との関わり始めに関する記事コピーを同封し
ました。
日本におけるステイタスは、現在でも皇室に代表されているかと思われます。その意
味でも前原光榮商店の存在は、洋傘業界にとって意義深いことかと愚考します。


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本誌に見る業界解雇 ―番外編
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昭和38年・上村豊氏へのインタビュー記事より

 ■皇室と洋傘の関係事始め
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           93'2.15 新聞掲載文


 二月中には、皇太子ご成婚式典の日程は発表される予定だといわれている。不景気
感が深まる日本列島で、唯一の明るい話題といえようか。
 ところで、皇室と洋傘は、明治の初めから、なかなか密接な間柄にある。そこで、
連載中の『本紙に見る業界回顧』───番外編として、昭和38年12月号から、上村豊
氏(叶彦商店社長)が語るエピソードを抜粋要約して以下に紹介することにした。

 
◇  ◇  ◇


私のおじいさん上村豊蔵という人は、弓で徳川に仕えていて、小石川の伝通院そばに
お屋敷があった。それが明治維新で体制互壊に会ってしまった。
 その時分、長男が横浜の弁天通りで輸入の唐物屋を商っていて、上村家の五男だっ
た親父の彦次郎が番頭みたいな形で仕事を手伝っていた。
 唐物屋というのは、輸入した雑貨や洋品を扱う店で、その輸入品の中に洋傘があっ
た訳です。洋傘の商売は当時、バカに景気がよくて豪勢だったらしいが、そのうちに
長男が亡くなったので、親父が両親を引き受けて横浜から生まれ故郷の江戸(東京)
へ移ってきて、そこで洋傘商を始めたのが明治五年の十月です。

───親父は外国から入ってきた傘を見本にして、自分で傘作りを始めた。その頃は
まだ日本に傘の材料がなかったから、唐物屋をやっていた伝手でロンドンから直ぐに
ごく少数だけ取り寄せて作った。そのうち、日本は絹の本場したから、絹の傘時を甲
州で織らせるようになった。いわゆる甲斐絹ですね。それで作った傘を宮中に納めた
んです。
その時分、一番文化を流行らせたのは宮中なんです。
 文明開化で皇后陛下が洋装されると、女官達も洋装になる。洋装の時に傘を持つよ
うになったんです。先ず、流行が宮中、陛下御一門から始まり、それから子爵とか男
爵などの貴族に広まり、そして鹿鳴館時代になるということで、一般しもじもの者が
傘を持つようになったのはずっとあとで、こうもり傘というのは大変に高価で大切な
ものだったんです。

───宮中へ納める傘は、フランスからくるのと同じ生地で作った。宮中へ仕候し
て、「何々の宮さま」「何々の宮さま」とご注文を受けて、それを作って納めた。傘
の宮内省御用達だったんです。
 納める傘は桐の箱に入れて持って行くんだが、その上には「御用」の文字が墨で書
いてあった(その箱は震災で焼失してしまった)

───明治天皇銀婚式のお祝いがあった時、東京洋傘問屋同業組合から天皇陛下用と
皇后陛下用の洋傘を献上したんです。その男物の傘は、当時京橋にあった仙女香とい
う店の主人が、自分でフランスから持ち帰ったのを参考にして謹製された。婦人物は
親父の上村彦次郎が謹製して、両方を一緒にして組合が献上したんです。

───献上傘を作った時の写真がありましたが、親父が斎戒沫浴してから、仕事場に
注連縄を張って、刀鍛冶がやるみたいに一番弟子の腕のできる者を前に置いて作っ
た。

───銀婚式の祝賀会が上野で行われて、それに列席された明治天皇が乗り物に幌を
掛けずにオープンになされて、皇后陛下とお揃いで日本橋の室町(当時は本石町十軒
店)の前を通って行かれた。
 皇后陛下がその時にパラソルをさされた。その時の錦絵があって、女官たちがパラ
ソルをさしている。銀婚式にちなんで、それまでは黒塗りの骨しかなかったけれど
も、銀色にしたんです。生地も銀色を横に織って作ったんです。それからクローム
メッキの銀骨が流行ったんです。今の銀骨の元祖ですね。

───終戦後、善光寺へお詣りしたら、昭憲皇太后の御遣物を飾った御物展があっ
て、拝見したら親父が作って献上した傘が、御愛用の洋傘として展示してありまし
た。
 
 (注)この記事は、昭和38年7月31日に日本橋室町の料亭『とよ多』で、本紙記者
が上村氏にインタビューしたものをまとめたものとして掲載されている。
 上村氏は、大正7年に先代彦次郎氏の洋傘製造卸業(明治5年創業)を継承、当時
は東京洋傘組合の理事を務めていた。そして、昭和38年11月19日に有馬温泉で開かれ
た全国大会(交換会)に出席、翌早朝に心臓麻痺のため宿泊先で急逝(享年62歳)さ
れている。












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