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(イ)下り傘(くだりかさ)
あまり役に立たないことや価値を感じないものを「くだらない」と表現したりする。
江戸時代、流通経済が発達する中で、物産の一大集散地は大阪であった。最大消費
地の東京(江戸)は、消費物質の多くを大阪(上方)からの供給に頼っていた。その
大阪から東京へ移送される物質を「下り物(くだりもの)」といった。商品価値の低
い物はその流通経路に乗らない―即ち「下らない物」と言われた。これが「くだらな
い」の語源とされる(常識ですね・・・・)
傘(和傘)も「下り物」の一つとして大阪から東京(江戸)へ移出されていた。正徳
4年(1714)、大阪から移出された傘は234,250本と記録されている。この殆どは東
京に向けられたと考えられる。(正徳4年大阪移出商品表)。
(ロ)蝙蝠傘の呼称
明治になると西洋傘(蝙蝠傘・異国傘・南京傘などとも呼ばれた)がもてはやされ
るようになる。呼び方としては、蝙蝠傘が定着することになる。 安政元年(嘉永7
年・1854)、米国大使ペリー一行が日本に上陸した際の光景を写生した樋畑翁輔の
『彼理提督来朝図会』に傘を開いた形と閉じた状態を描いた図があり、その説明文の
中に「雨傘、骨鯨にて八本、薄き絹を張り・・・・・色黒くして蝙蝠の如く見ゆ」と
ある。また、仙台藩士玉虫左太夫の『航米図録』(万延元年・1860)の「紐育
市」の条に「道路往行には、男女皆蝙蝠傘を携ふ」とある。記録に残る「蝙蝠傘」初
出と目されている。樋畑が説明に用いてから数年にして「蝙蝠傘」の名称がやや一般
化したものと思われる。
(ハ) 明治5年 東京の傘事情
明治5年(1872)に東京府が調査編纂した『東京府志料』は、府下の町村丁目にわ
たって人口、地理、車馬、物産等をもとめた地誌、物産誌というべきものである。
その中から各町丁目毎の「物産」項目より、傘に関連するものを抽出してみると、地
域名として125町(丁目)が見出される。内訳は、傘が107、西洋傘7、蝙蝠傘6、西
洋形小傘、日傘、雨傘、傘骨各1、傘ろくろ1となっている。
この内訳から察するに、傘は和傘、西洋傘と蝙蝠傘は洋傘を指すものと考えられる。
それらの会計数量をだすと―――(町名毎の数量は別紙添付参照)
傘 226,341本 37,327円52銭
西洋傘 7,230本 6,370円
蝙蝠傘 10,240本 8,760円
(西洋傘 + 蝙蝠傘)
17,470本 15,130円
単純平均単価をだすと―――
傘・・・・・・・・16銭5厘
西洋傘・・・・・・88銭
蝙蝠傘・・・・・・85銭5厘
(西洋傘 + 蝙蝠傘・・・・・・・・・・86銭6厘)
※洋傘は和傘の5倍強
明治5年頃は洋傘の生産がようやく緒(?)に着こうとした頃で、同10年以降は急速
に興隆する。それまでは、とうてい生産が需要に追いつかず、輸入に頼っていた。
明治5年の洋傘輸入量は約5万ダース、41万円ほどである。1本68銭に相当し、前
述の単価(東京府志料)と見合うものをなっている。(明治初期の西洋傘1本の値段
はほぼ米一俵分に当たるといわれる。)。
(ニ)供給量は4人に1本の割合
明治5年の東京府志料に挙げられている西洋傘・蝙蝠傘・傘の合計数量は243,811本に
なる。東京の人口は明治18年で100万人をやや下回っていたから、ほぼ4人に1本の
割合という供給量になる。
正徳年間の下り傘の数量といい、日本人の”傘好き”な文化的歴史背景が想われ
る。
なお、下り傘は安政三年(1856)の『安政貨物移入録』によると年間26,000本とな
り、正徳4年の9分の1に減っている。これは東京(江戸)及び近郊での生産が増えた
ことや加納傘(岐阜産)が入るようになったからであろう。
以上、ポイントの定まらない内容になりましたが、傘への愛好度が高い日本人の気質
と歴史(文化)の一端を示す参考として受け取ってくだされば幸いです。
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