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昭和13年(1938)4月に国家総動員法が発令され、日本は急速に軍事体制政策が
押し進められることになった。その一環として、物資や商品の価格に対する国家統制
が強まり、企業の活動が次第に不自由なものになって行った。
傘(洋傘・和傘)に関しては、13年3月31日に小売価格に10%の物品税が課せられ
ることになり、同年11月には物品販売価格取締規則に基づいて東京府が公定価格を
告示(地方の価格はこれに準ずるものとする)している。
その一方で生産資材等の統制、戦争が進行するに連れて製造従事者が徴兵される
などから生産量の減退傾向を招き、それによる品不足もあって、公定価格の設定にも
拘わらず、いわゆる「闇商品」などが横行して価格高騰を招く皮肉な現象を呈した。
(1)生産量の減少
戦前の年間生産数量をみると、洋傘は昭和11〜12年の960万本、和傘は12〜13年の
2,700万本余りがピークであった。その後の推移は次のようになっている。
※昭和16年の和傘がピーク時に並ぶ数量示したのは、和傘が炭鉱および重要産業の
労務者用物資に指定されたことに依ると思われる。公定価格や物資の配給規程が
廃止されるのは昭和24年になってからである。それまでの生産数量は次のようにな
っている。
洋傘に比べて和傘の復興が著しく、24年には戦前のピーク時を上回っている。こ
れは終戦後、復員従業員、戦争未亡人、傷痍軍人、引揚者等のために授産所が設け
られ、従来の和傘業者に加えて従業員数が増えたことに依ると考えられる。そのた
め、技術不足や資材難から粗悪品が多量に市場へ流れる弊害も生じた。和傘は昭和
30年代に入ると、合成繊維生地の洋傘に圧倒され、やがて市場からは殆ど姿を消し
て行くことになる。
(2)価格の高騰(公定価格の変遷)
昭和13年に設定された公定価格(洋傘11分類、和傘3分類)は、当該品の仕様判別
が難しくて、市場での実効性が期待できないことから(※)、昭和15年(1940)より、
洋傘は「男物」と「女物」、和傘については「蛇の目傘」と「番傘」および「日傘」
という分類方式に変更された。
( (※)業者側は当該分類の仕様から外れる製品を作って逃げ道とした。)
それでも品不足からくる市場の実勢価格(いわゆる闇値)とのずれが大きく、公
定価格も毎年のように改定される急騰ぶりを呈した。その変化は次のとおり。
公定価格の変遷 (小売価格・1本)
洋 傘 和 傘
男物 女物 蛇の目 番傘
昭和15年7月 4円50銭 3円50銭 2円64銭 1円72銭
昭和17年5月 18円15銭 18円15銭 2円90銭 1円95銭
昭和18年8月 16円50銭 16円15銭 3円12銭 2円14銭
昭和19年 11円80銭 11円62銭 3円89銭 31円08銭
昭和20年2月 − − 4円64銭 3円89銭
昭和21年6月 60円 56円50銭 − −
(大蔵省告示)
昭和23年4月 143円69銭 134円40銭 85円70銭 67円902銭
(物価庁告示)
昭和23年12月 677円80銭 557円 138円 109円50銭
昭和23年11月 − − 248円 187円
昭和23年12月 1,516円 1,273円 − −
昭和24年3月 900円 697円 − −
昭和24年7月 540円 540円 − −
(※)15,17,18年は商工省、19,20年は農商省の告示
(※)15年の洋傘は特免綿洋傘の価格。他は一般用洋傘の価格。
(※)24年7月30日をもって公定価格廃止される。
公定価格と市場の実勢価格との差が大きいこともあり、昭和15年に「一定の価格を
超える商品の販売を禁止する」措置が講じられた。これを「限界価格」と呼んだ。
洋傘の限界価格は25円。因みに、書類入鞄は30円、万年筆が5円。
戦後の狂乱物価ぶりが、この公定価格の変化からも窺われる。22年だけでも12月に
は4月比で実に4.7倍の激騰ぶりである。しかし、24年に至って配給物資の統制が解け、
公定価格が廃止されると生産量も伸び始め、急速に価格の沈静化が現象している。
(3)傘に対する物品税
傘(洋傘・和傘)の小売に対する10%の物品税が昭和13年から課せられ、16年に
20%、18年に30%、19年に40%と増税された。戦後は21年8月から製造業者課税となり、
40%(洋傘は40円の免税点あり)。22年3月から30%(洋傘の免税点は22年に110円、
23年に590円、24年4月に1200円)となり、25年1月1日をもって物品税が撤廃されている。
(24年3月の男物洋傘の公定価格が900円に対し、同年4月の物品税で免税点が1200円と
いう珍現象を呈している。)
(※)戦後、指定配給物資とされた洋傘は、引揚者、戦災者、要保護者、学生を対象
にして配給されたが、品質はあまり良くなかった。
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