日本における洋傘(蝙蝠傘)の本格的な始動は明治に入ってからである。当時の
洋傘事情に関する記述を少しばかりのぞいてみよう。明治30年代前半期に出版された
平出鏗二郎(ひらで こうじろう)著『東京風俗志』には次のようにある。
●蝙蝠傘の勢いが和傘を追いやる
蝙蝠傘は早く慶応三年の初め、既に伝わり来りしが、専ら武士の用いられしに、次第
に衆庶を通じて盛に用いられ、竟(つい)に日傘を圧倒せり(※注1)。当初は八間骨の
平張にして劣れるは天竺木綿1(※注2) 優れたるは甲斐絹(かいき)(※注3) を似て
張りしが、その後愈々(いよいよ)華美を追いて、今にては男物には甲斐絹、綾甲斐絹、
綾毛繻子、瓦斯(※注4)、紋毛繻子等を用い、盛夏には白の絢爛張(※注5)最も行わる。
※注1 日傘を圧倒せり。洋傘の勢いが、従来からの日本の傘(和傘)を圧倒したとの意。
明治6年に出た西村芳藤(よしふじ) 『本朝伯来、戯道具くらべ』には、和傘を持つ河童
が蝙蝠傘(洋傘)をさした鷲に威圧されている様子が描かれている。
※注2 天竺木綿(てんじくもめん)。木綿織物の一種。地はやや厚手。シーツ、裏地
等に使う。
※注3 甲斐絹(かいき)。近世初期頃に中国から渡来した平織の絹布。後に甲斐国
(山梨県)で織産が盛んになり、甲斐絹と通称されるようになった。海気、海黄、改機
とも書く。
※注4 瓦斯(ガス)。ガス糸、ガスの炎で焼いて、滑らかにして艶を出した糸。
その織物。
※注5 絢緞・絹緞(けんどん)。良質の柞蚕糸(さくさんし=やままゆの糸)をたて、
よこに使って密に織った平織物。当時輸入された洋傘地の素材には、
絹、呉絽(※注6)・アルパカ・木綿などが用いられていた。
※注6 呉絽(ゴロ)。オランダ語の音訳「呉絽服連」の略。
舶来■(木へんに充)毛織物の一種。明治16年に欧州から輸入した呉絽張蝙蝠傘が
大流行。これを見本に河内木綿業者が18〜22年にかけて盛んに製織したが、
23年ごろから衰えてしまう。
●国産蝙蝠傘の興隆
洋傘は晴雨ともに携行され、需要も急増状態であったことから、いちはやく
輸入部材を使って製造を手掛ける者が表われる。生地は国内製織技術の応用で木綿、
絹地を主に採用。骨も明治10年頃には工場生産がはじめられる。
その頃の傘骨は、ワイヤーロープを叩き伸ばして、親骨を丸に、受骨を丸または角
の形状に加工。男物用は22吋(インチ)=56cm弱 女物用は21吋=56cm弱 の
サイズで10間ものであった。英国フォックス社に代表される溝骨が国産化される
のは、明治18年以降からである。
明治中葉の内国産「こうもりがさの品種」の項目での『日本社会事彙』に、製品
の等級に関して次のような記述(抄録)がなされている。
●絹張傘の場合
上等品…12間の溝骨に海気絹を張る。骨は多く舶来品を用うれども、あるいは
和製を用いるものあり。時として舶来品を用う。柄(中棒)は黒檀もしくは紫檀、鉄刀
木などを用い、握り(手元)は鹿角もしくは水牛の角などを接合す。傘の大きさは
24インチ(61cm弱)より、ようやくにして18インチ(46cm弱)に至る。
中級品…10間の溝骨に海気絹を張る。骨は舶来あるいは和製を用い、柄は蚊母
樹を塗用う。
下等品…8件骨にて溝骨あるいは丸骨あり。海気は最も下等なる甲斐産を用い、
柄は多く竹を用いる。
●その他の場合
他の生地素材では、本毛(毛繻子)張が上等、綿毛(綿繻子)が下等品となるが、
ともに海気絹張り上りよりも耐久性に優ることから、需用はなはだ盛んなり。
また金巾(かなきん)張りあり。夏季用は白地もしくは更紗を用い、あるいは
文字を題し、あるいは花卉(かき)を画くなど各種あり。骨も下等となす。これらの
製にはあるいは方骨を用いるなり。
●明治30年代頃の市販価格
洋傘の価値を左右するのは、上記のように張生地の素材によるほか、手元
(ハンドル)も重要なポイントであった。各種の自然木た竹、象牙、鹿や水牛の
角など多様な素材を用い、金銀細工や彫り模様、動物や果物などの彫刻など
趣向のバラエティーに富んだものが珍重された。
明治30年代前半期の洋傘生産量は年間4百万本前後で、生産原価は平均にして
1本60銭余。市販価格は、溝骨で男物の並級が4〜6円、中級品で7〜12円、
絹艶や珍耳生地で高級手元付きが17〜18円。女物は甲州産絹張りが7〜13円、
西陣産絹張りが15〜25円位。子供傘は2円50銭〜80銭位。
明治21年4月『吉原花魁(おいらん)道中』図(版画)には、十文字樓の静江太夫と
都路太夫が、洋装姿にハイカラ髪型で深張りのパラソルをさしている姿が描かれ、
洋傘の人気とステイタスぶりがうかがえる──── 余録まで
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