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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
和傘が元気だったころ



 ◆洋傘の化学繊維生地開発が転機

 現今、傘といえば金属あるいはプラスチック製等の骨組み(フレーム)に布地または
ビニール等を張った、いわゆる洋傘が一般的に連想される。しかし、日本においては、
平安時代の頃から、竹などの骨組みに紙を張った和傘が永い歴史を歩んできた。

その和傘が洋傘の勢いに圧倒されたのは、明治維新後の文明開化期と戦後である。
その戦後でも、しばらくの間が和傘の方が優勢な状態であった。

和傘が洋傘に取って替わられるのは、昭和28年(1953) にナイロン製、昭和35年
(1960) にポリエステル製の傘生地が開発されてからである。


それまでの洋傘生地は絹や木綿などの天然素材が主で、供給量が限られていた。

それが化学繊維になると供給量が増え、次第にコストも低減して生産を飛躍的に
増大させ、利便性やファッション性などの面でも人々のニーズに応えることにより、
市場における主役の座を交替した(※ちなみに、月刊業界紙『洋傘タイムズ』の
創刊は昭和34年、平成14年に休刊)



 ◆戦前から戦後にかけて和傘が優勢  洋傘に主役の座を譲る前の和傘の生産状況について、昭和24〜25年頃の 数字で振り返ってみたい。戦前における国内生産量のピークは、共に昭和11〜 12年頃で、和傘が2780万本強、洋傘が960万本(年間)だから、和と洋が3対1 ほどの割合になっていた。 それが24〜25年頃には、和傘が3960万本超と戦前の記録を上回っているの に対し、洋傘は420万本にとどまっている。その差が9倍ほどに広がっている。 しかしこれを金額でみると和傘の55億3000万円に対して、洋傘が29億4000万円 ほどであり、総平均単価にすると和傘が139円、洋傘が700円ほどになる。 この頃では、実用性の和傘に対して、洋傘が社会的ステイタス商品に位置づけ られる状態でもあった。なお、傘は昭和14年から価格統制令(公定価格)の 対象品目となったが、昭和24年7月30日に廃止されている。
 ◆和傘の組合が全国に77もあった。  当時(昭和24〜25年)の生産環境をみると、和傘の製造工場は全国で 6605軒、従業員数は19453人。これに対して洋傘は工場数393軒、従業員数は 2403人であった。 和傘の産地(工場)は全国に分布しており、業者が加入協同組合は実に77団体 に及んでいた。ちなみに、ブロック別の組合数と挙げると、東北6東京14 名古屋15近畿7中国11四国6九州18である。 和傘の主な製造工程としては、■資材の組立て加工(ロクロ、竹柄、親骨、 小骨の統合)⇒■下具火タメ(熱を入れ小骨の形を整える)⇒■紙選別と糊作り ⇒■張り加工(フチ張り、上張り、下張り)⇒■天井整備(頭包み)⇒■攻入れ 加工(張り紙と骨との状態を整える)⇒■油引き加工⇒■天日乾燥(3日間ほど) ⇒■第二回油引き・同天日乾燥⇒■仕上げ加工⇒■検品⇒■附属取り付け (天金・天紙・手元の巻籐、柄の石突)⇒■製品 といった具合い。 これらの作業は殆どが分業制で行われていたが、一人当たりの一日の生産量 は4〜5本程度とされていたようである。
 ◆洋傘に対抗した和傘のアイデア商品  慶応年間(1865〜67)から明治の文明開化時代にかけて、西欧からの文物と して洋傘(蝙蝠傘)が大いに受け入れられた。この流行する勢いに危機感を 覚えた和傘の業者間では、新奇な需要へ対応しようと、いろんなアイデア 商品の開発を試みている。 先ず、慶応年間においては、洋傘に刺激されて、紙の代わりに綿布を使用 した「布張傘」が考案された。しかし、これは傘をたたむ時に具合いが悪い ため、ほどなく姿を消すこととなった。また、紙をシボリ染めにして張った 「しぼり雨傘」が作られ、割と派手目なことから、特定の客層で利用した ものの、一般化はしなかった。 明治に入ると、油煙の作用で浮かし模様を出した「クスベ傘」、通学用と して国別図を彩色で表現した「地球傘」(明治22年)、晴雨兼用の日傘 (明治28年)や絹張りの雨傘、製紙の際に細い糸を斜め・ヨコ・タテに 抄き(すき)込んだものを番傘仕立てにした「糸入傘」は、張った紙が 破れ難いように工夫したもので、のちに「網代(あじろ)傘」と呼ばれる ようになった。 大正時代(1912-25)にも、絹地に刺繍や新しいデザインを施した「絹張日傘」 で需要は喚起したり、洋傘を真似て折りたたみ式にしたり、下げ紐や絹房を 付けたり、石突きを設けるなど和洋折衷型がいろいろ工夫されている。

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